塾長の徒然草日記

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塾長の徒然草日記

徒然なるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、
そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。
鎌倉時代末期、吉田兼好(兼好法師)が書いた随筆「徒然草」の冒頭で
す。私も彼を真似て心に思い浮かぶいろいろなことを書き綴ってみます。

第19段 選挙運動とボランティア

‐私の小さな体験から‐

 選挙に勝つには何が必要か分かりますか?
 そうですね・・・。地盤、看板、鞄ですか。
 その通り。よくお分かりですね。
 地盤は候補者の支援組織です。業界団体、学校の同窓会、町内会、地縁血縁いろいろありますが、基礎票が推定できます。
 看板。候補者の知名度です。ある意味選挙も人気投票です。候補者の顔が知られていないと、「この人誰?知らない」となり、票は入りません。
 最後に鞄です。一番重要な要素です。現金が無ければ選挙運動ができません。費用は幾らかかるかは、どの選挙に出るかによって人それぞれでしょうが、最低限入る供託金を例にすると、衆議院が小選挙区300万円、比例代表300万、重複立候補すると600万円。参議院が選挙区300万円、比例代表300万円。知事が300万円。市長が100万円。県会議員が60万円。市会議員が30万円となっています。これにポスター代、選挙カーのレンタル代、運動員の人件費、食事、通信費等々いくらでも膨れ上がっていきます。最低でも国政選挙では数千万円、地方選挙でも数百万円が必要だと言われています。
 選挙に関する言葉にこんなものがあります。井戸塀選挙。選挙に出て落ちると、その候補者の家には井戸と塀しか残らない、という意味です。2世3世の世襲議員が幅を利かせるのも仕方ないことかも知れません。
 さて、今回は私の小さな選挙運動体験から、無償の選挙協力がどれだけ陣営にとってありがたいかを書いてみたいと思います。
 今から20年程前の話になります。中学の同級生のK君が市会議員選挙に立候補しました。彼は中学2年生の時に一宮から小牧にやって来たので、地盤看板は全くありません。会社員なのでもちろん鞄もありません。そんな状況からのスタートでした。
 先ずは講演会作りからです。中学の同窓会名簿を頼りに、講演会入会依頼のハガキを出しました。私も悪筆ですが、K君も私に劣らず悪筆です。綺麗な字を書いてくれるスタッフがいたら、どんなにありがたいかつくづく思いました。そんな悪筆での依頼に、快く賛同してくれた同窓生の方々には大感謝でした。
 土日はポスティングと戸別訪問です。家を一軒一軒回って政治信条を訴え入会をお願いします。残念ながら返事はNO!会ってももらえません。当然の話ですよね。見ず知らずの人間がいきなりやって来て、政治信条に賛成しろなんて、どだい無理な話です。何10軒と続くと心が折れてきます。そんな時に、偶々話を聞いてくれる家に出会うと、地獄に仏、神に出会ったような気になります。困難は神が私の信仰心を試されているんだと考えて行動できる宗教信者の協力は、絶対にありがたいものだと想像できます。
 選挙戦が始まりました。先ずはポスター張りからです。初めての選挙戦では人手が足りないので、候補者自らもポスターを貼りました。ポスター1枚で票が入るわけではありませんが、掲示板に候補者のポスターが張ってないと、候補者の力、存在感の無さを印象付けることになりました。泡沫候補なんだと。
 初陣の結果は下から3番目でした。
 4年間K君も勉強しました。町内会の役員をやったり、いろいろな会合に積極的に参加したりして、顔と名前を覚えてもらえるよう一生懸命に努力しました。
 結果は現れて来ました。町内の代表として推薦しても良いかな、という意見まで出て来ました。残念ながら推薦は得ることが出来ませんでしたが、使わない離れを選挙事務所に提供してくれる人や、いろいろ雑用を手伝ってくれる人も出て来ました。
 選挙運動を通じて知り合ったタウン誌の編集者から、ウグイス嬢の紹介もありました。さすがはプロです。彼女が乗ると選挙カーの雰囲気が一変しました。
 政治家の為書きも事務所に飾ることができるようになりました。そうすると、不思議なことに、事務所に出入りする人の数も増えて来ました。当然それに伴い出費も増えていきます。鞄だけはなんともなりません。
選挙戦最終日です。桃太郎とか大名行列といわれるものが始まります。襷掛けをした候補者を先頭に、幟をもった大勢の支持者が、最後のお願いに地盤を中心に街を練り歩きます。
 K君の陣営はもともと支持者が足りません。少ない人数での大名行列ではみっともありません。見かねた近所のおばさん達が、飛び入りで参加してくれました。その中にある宗教の信者の人がいたので、その関係の人々も行列に参加してくれました。枯れ木も山の賑わい。行列の参加者が年配者ばかりなので、逆に、お年寄りに優しい候補者と印象付けることも最後に出来ました。
 結果は?次点の次点でした。良く頑張りました。地盤、看板、鞄のないところから始めた選挙でした。それが次点の次点です。誰か選挙違反で捕まれば、繰上げ当選できる位置です。本当によく頑張りました。
 地盤を作るにも金。看板を作るにも金。人とお金がないと大変苦しいのが選挙です。そんな状況下で、神や仏への信心の下、無償で選挙運動を手伝ってくれる存在はありがたいものです。組織の上は何を考えているか分かりませんが、現場はとても助かります。だからこそ、手伝いに入っている人がどんな組織の人か、しっかり調べてもらいたいものです。清く正しい選挙であるために。

第18段 参議院議員選挙が終わって

 第26回参議院議員選挙が7月10日に実施されました。当初は与党が勝利することが分かっている面白みに欠ける選挙でしたが、投票日直前の金曜日を境に様相が一変してしまいました。
 7月8日金曜日午前11時半ごろ、奈良市の近鉄大和西大寺駅前で、自民党候補者の応援演説中だった安倍元総理が、世界平和統一家庭連合(霊感商法で物議を醸した旧統一教会)に恨みを持った男に銃撃され、命を落としました。安倍元総理の非業の死により、参議院選の争点はどこかへぶっ飛んでしまい、安倍元総理の弔い合戦のようになってしまいました。
 選挙結果はどうなったか。自民党の当選者は63人。これは改選議員数(125人)の過半数を自民党単独で確保したことになります。自民党の圧勝です。憲法改正に賛成する公明党、日本維新の会、国民民主の4党を合わせると177議席。これは参議院の議席数248の3分の2を越えます。衆議院でもこの4党で345議席。衆議院の議席数465の3分の2を越えています。憲法改正の発議には各議院の総議員の3分の2以上が必要と、憲法96条に規定されています。要件を満たしました。ついに憲法改正が現実味を帯びてきました。
 改憲派の人々は昔からよく口にしていました。「現行憲法はアメリカから押し付けられたものだ。自主憲法を制定しよう。」と。そこで今日は、現行憲法の成立の過程を、終戦の年からちょっと振り返ってみたいと思います。
 1945年(昭和20年)3月。B29による本土空襲が激しくなる。深夜から未明にかけて、東京、名古屋、大阪、神戸などの大都市や県庁所在地をはじめとする地方都市が、次々に襲われ焼け野原になる。何十万、何百万という人が命を落とし負傷し、住む家を焼かれた。戦闘員ではない一般国民を標的にした攻撃です。今の倫理から言えば、明らかに戦争犯罪です。
 4月。米軍、沖縄本島に上陸。沖縄戦。10万人に及ぶ一般住民が犠牲に。
 7月。米・英・中3国、ポツダム宣言発表。日本、これを黙殺。この段階でポツダム宣言を受諾していれば、その後の原爆投下もなく、ソ連軍侵攻もなかったのに。
 8月6日。広島に原爆投下。死者約11万人。
   8日。ソ連対日宣戦布告。日本敗戦濃厚なのにこの時期に参戦。ソ連(ロシア)という国の本性が垣間見える。
   9日。長崎に原爆投下。死者約7万人。どんな理由を付けようとも、原爆投下もやはり戦争犯罪です。
  14日。ポツダム宣言受諾。15日。終戦。
  18日。満州国消滅。ソ連、千島列島へ侵攻。
 9月2日。ミズリー号上で降伏文書調印。ソ連、国後島占領。3日。ソ連、歯舞群島占領。まるで火事場泥棒のような行為。
 10月4日。マッカーサー、近衛国務相に改憲を示唆。
   11日。マッカーサー、幣原内閣に5大改革(労働組合の結成、婦人の解放、教育の自由化、経済の民主化、秘密警察の廃止)を指令。
   27日。憲法問題調査委員会設置(委員長 松本蒸治)。
 1946年(昭和21年)1月1日。天皇の人間宣言、神格を否定。
  2月3日。マッカーサー、GHQ民生局に基本3原則(国民主権に基づく天皇制、戦争放棄、封建制の廃止)を示して、憲法草案の作成を急がせる。
    8日。憲法改正要綱(松本案)GHQに提出。
   10日。GHQ民生局、憲法草案を完成。
   13日。GHQ,松本案を否定。GHQ案(マッカーサー案)を日本政府に手渡す。
   22日。閣議、マッカーサー草案を採用決定。
   26日。第1回極東委員会。
  3月2日。政府GHQ案に基づく憲法改正案を作成。6日。憲法改正案要綱を発表。
  4月10日。新選挙法による第1回衆議院議員総選挙。17日。日本政府、憲法改正草案を発表。
    22日。枢密院、草案の審議開始。6月8日可決。
  6月25日。衆議院が審議を開始。8月24日修正可決。
  8月26日。貴族院が審議を開始。10月6日修正可決。
  11月3日。日本国憲法公布。
 1947年(昭和22年)5月3日。日本国憲法実施。
 日本が独立を認められたのが、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日です。7年間のGHQによる占領がありました。これと比べて憲法改正は2年足らずで成し遂げられました。しかもマッカーサー草案ごり押しで。押し付けられた、という感覚は確かにあります。
 しかし、急いだおかげで、アメリカ以外の他国(特に中国とソ連)が日本の占領政策に口出し出来なくなりました。分断国家にならずにすんだのも、この憲法のおかげかも知れません。
 改憲勢力の本命は憲法9条です。制定当初と国際状況も大きく変わりました。修正の必要性は理解できますが、現行憲法は、日本国民が多大な犠牲を強いられた末に手にしたものです。安易に空気に流されず、党利党略に拘束されず、議員一人ひとりが己の良心に従って判断行動することを、日本国民は願っていると思います。
 日本国憲法制定からおよそ70年。時代も昭和、平成、令和と変わりました。制定当時とは社会状況も大きく変わり、その頃では想定されていなかった問題もたくさん出てきました。
 生活面で言えば、消費者に関する問題です。古くはサラ金問題、今でも問題になっている霊感商法、そして現在では還付金詐欺です。消費者の権利が憲法上規定されていないので、個別対応にも限界があります。
 振動、騒音、煤煙といった公害問題から始まった環境問題もそうです。国や大企業を相手に、憲法13条や25条を根拠に闘っても、なかなか思うようには行きません。
 性にまつわる問題もあります。今の憲法では男性と女性しか念頭にはありませんが、現代ではL(レスビアン)G(ゲイ)B(バイセクシャル)T(トランジェンダー)と性の多様性が徐々にクローズアップされ始めています。
 衆議院の解散がない以上、これから3年間は現有勢力の状態が続きます。国会議員の皆さんには、空気に流されず、党利党略に拘束されず、良心に従って判断し行動してもらいたいものです。

第17段 Let’s Begin!

‐さあ、始めよう‐

ある春の教育相談会

母 親:おはようございます。今日はよろしくお願いします。

塾 長:おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。

母 親:この春、中学に上がる子がいるんですが、中学の勉強についていけるか心配で。

塾 長:中学に進学、それはおめでとうございます。確かに中学の勉強は心配ですよね。小学校の勉強と違い、中学の勉強は、学習事項も増え、学習内容も難しくなりますからね。特にどの教科が心配ですか?

母 親:やはり算数ですかね。

塾 長:やはり算数ですか。中学へ上がると数学と教科名も変わりますからね。 中学の上がって最初にぶつかる壁は、負の数の計算です。負の世界の計算で、大勢の中学生が戸惑います。お母さんも経験あると思いますが、-7-3が-4になったりするんですよね。

母 親:(笑いながら)はい、ありました。私もよく間違えて、先生に良く注意されました。

塾 長:そうならないためには、早くからの予習が大切です。中学の勉強を早く始めたほうが良いんです。ただここでネックになるのが、計算力です。計算力が無いとよく間違えるので、勉強の効果がなかなかでません。

母 親:どうしたら良いんでしょうか?

塾 長:そうですね。今のうちに整数の計算のルールや、分数・小数を復習しおき、3月になったら正負の計算の予習を始めるのが、良いんではないでしょうか。シューレでもこの春、中学準備講座を開講しています。是非ご参加下さい。

母 親:ありがとうございます。是非そうします。

二 人:今日はどうもありがとうございました。

第16段 決断と覚悟

 『嫌われた監督』(鈴木忠平著 文藝春秋)。本のタイトルに引かれて、つい手が出てしまいました。中日の監督時代の落合博満の物語です。落合は球団側からチーム強くしてくれ、優勝させてくれ、と頼まれて監督を引き受けたそうです。落合の言動は全て契約を実行するためのもので、実情を知らない他人からは何を言われようと構わない、と腹を決めたそうです。その結果、実績を残しても嫌われてしまいました。嫌われるのを覚悟しての監督就任。並大抵の覚悟と決断ではありません。
 そこで、本を読んで、自分の人生の決断と覚悟をちょっと振り返ってみました。
 人生最初の決断はやはり高校受験でしょう。
 当時私が卒業した中学校では、地理的関係から、成績上の中から中の上クラスの生徒は、北区のN高校や地元のK高校を志願するのが一般的でした。本命がN、それがだめならK高校。これがスタンダードでした。もちろん私もN高校‐K高校でした。
 受験勉強もそれなりに一生懸命にやったつもりでしたが、勉強にむらがありました。どうしても好きな教科、得意な教科に力を入れて、他の教科はやや手を抜いていました。英数が出来ればそれだけで自己満足していました。
 当然成績は思ったようには上がらず、受験校は地元のK高校に決定。張り詰めていた気持ちがやや緩みかけた状態で入試当日を迎えます。英数は順調に試験を終えたのですが、理科には冷や汗をかく羽目になってしまいました。「落ちたらどうしよう」、という気持ちをもちながら結果発表を見に行った記憶があります。
 次の人生の決断は大学受験です。
 入学したK高校では楽しい高校生活を送りました。K高校は前身が旧制中学だったせいか、校則の縛りはわりと緩かったです。加えて、当時はやや左系の先生がわりといたので、よく言えば、生徒の自主性を重んじる。悪く言えば、ほったらかし。そんな雰囲気でしたので、授業が自習になると、学校を抜け出したりしていました。当然学校へ戻ったら生徒指導部へ直行。指導部の先生から、ありがたい話を何度も何度も聞かされました。
 そんな状況なので成績も下降線。中の下位まで下がってしまいました。進路相談で「行ける大学などありません」と言われ、やっと目が覚める有様でした。自覚のない受験生の見本です。同じような状況でも、自覚のあった友人の何人かは、現役だ、信州、岐阜、愛教大に合格しました。中には三浪してまでして名大に進んでいった執念の鬼もいました。
 で、私ですか。一浪してなんとか日大に入ることが出来ました。最近、理事長が背任や脱税容疑で世間を賑わしているあの大学です。私が入学した頃は、誰でも入れる三流大学と言われていました。それが卒業して何十年も経つと、大学のランクが上がってビックリ。早慶、MARCH(マーチ、明治、青山、立教、中央、法政)、日東駒専と第三グループに入っているのにビックリです。
 第三の人生の選択は、卒業後の進路です。
 大学ではそれまでと違って一生懸命に勉強しました。ゼミ(研究室)に入ろうと決めた2年生になってからは、図書館と下宿の往復だけの日々が続きました。勉強の甲斐があって無事入室を許され、1年が経ち後輩ができると、指導教授や助手の先生から、後輩の面倒を任され、大学に残ることに決めました。同期の者が、A社の筆記試験はどうだった、B社の面接はこうだった、と喫茶店で情報交換する側で、辞書を片手に原書と取っ組み合いをしていました。
 無事合格。大学院生は学部生と違い、一応研究者の一員の扱い。自分の机が与えられ、書庫への出入りも許され、学問の世界に浸ることができた幸せな2年間でした。
 2年が経ち、自分としてはこのまま上の課程に進みたい希望を持っていましたが、体調を崩し家に帰ることになりました。さて職はどうする。たまたま取っていた教員免許のおかげで、高校の教師になりました。
 南区にある男子校のD工業高校(現在は男女共学のD高校)で3年余りお世話になり、その後は昭和区にある男子校のN工業高校に30年以上お世話になりました。
 通常ならその間に、正規の教員になろうと採用試験の勉強をしたり、伝を使っていろいろ就職活動をするのですが、そのような気になかなかなれず、今日まで教員生活を送って来てしまいました。
 長い人生、人はいろいろな状況において様々な決断をします。その決断は、その人において全て正解だと思います。ただ、こうすれば良かったのに、という思いが残るとすれば、それはその決断に覚悟がちょっと足りなかったのかも知れません。
 これからの人生、悔いのない選択ができるように、より一層の覚悟を持って決断していきたいと思います。

第15段 うちの子、ミスが多すぎるんですが…

‐繰り返しの重要性‐

ある冬の教育相談会

母 親:おはようございます。今日はよろしくお願いします。

塾 長:おはようございます。寒い中お越しいただき、ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。

母 親:実は、中学生になる子がいるんですが、テストでミスが多くて困っているんです。テストのたびに、出来た、今度は出来た、と言って学校から帰って来るんですが、返ってきた答案は本人が言う点数より、10点15点と何時も低くて。どうしたら良いんでしょう。

塾 長:そうですか。本人もショックでしょうね。正負の符号の書き間違い。文字や次数の書き忘れ。解答の写し間違い、解答欄を間違える。例えば、そんなところですか。

母 親:はい、そうです。

塾 長:典型的なケアレスミスですね。

母 親:性格的な問題でしょうか。

塾 長:そうですね。勿論そういった面もありますが、大丈夫ですよ。何とかなると思いますよ。

母 親:本当ですか。どうすれば?

塾 長:基本の繰り返しです。数学で言えば、正負の計算、文字式、方程式、因数分解、平方根といった計算力を主とする分野を、ミスをしなくなるまで繰り返しトレーニングすれば、随分と違ってきます。

母 親:それだけで?

塾 長:何でもない簡単そうに思えますけど、そうじゃないですよ。思った以上に大変ですよ。小学生の例ですが、シューレでは授業の始めに100ます計算をしています。足し算から始まり割り算までを、各計算10回ずつ行っています。最初は5分、6分とかかっていた子が、半年ほどすると2分台、3分台になります。そうすると計算に自信がつき、小数や分数が混じった難しそうな計算問題にも、喜んで挑戦するようになります。繰り返しの小さな成功体験をたくさんすることで、自信もつきミスも減っていきます。シューレではこの冬、学習分野をピンポイントで絞った弱点克服講座を実施しています。受講して自信を付けて下さい。笑顔で3学期を迎えましょう。

第14段 横綱白鵬引退

横綱白鵬引退

 通算勝利 1187勝 幕内勝利 1093勝 横綱勝利 899勝 幕内優勝 45回 全勝優勝 16回 横綱在位 84場所
 この数字何だか分かりますか。白鵬が残した数字です。全て歴代1位の数字です。これから先、誰も達成できないだろう前人未踏の記録です。平成の大横綱白鵬が、名古屋場所全勝優勝を花道に、数々の大記録を残してついに土俵を去りました。 2000年、15歳の白鵬は力士を夢見て来日しました。一緒に来日した仲間は、次々に相撲部屋にスカウトされるのに、白鵬だけは声がかかりません。身長175cm、体重60k余りの体では仕方ないですね。しかし相撲の神は彼を見放しませんでした。諦めて帰国する夜ぎりぎりのところで、宮城野部屋への入門が決まりました。 2001年5月夏場所。初めて番付に名が載ります。もちろん序の口です。結果は何と負け越し。後の大横綱の相撲人生が負け越しスタート。相撲の神様も意地悪ですね。 山盛り4杯のご飯を、1リットルの牛乳で流し込む食事を重ねて体を大きくし、辛く厳しい修行に耐え、だんだん力を付けていきます。2004年1月初場所で新十両。その5月夏場所で新入幕。2005年1月初場所で小結。同3月大阪場所で関脇。2006年5月夏場所で大関、しかも初優勝。そして2007年7月名古屋場所でついに横綱に上り詰めました。 今でこそ、相撲の取り口が荒い、と非難されていますが、本来の取り口はそうではありませんでした。鋭い立会いの踏み込みから、左の前まわしを奪い、右も差して組み止め、相手に何もさせずに寄り切る。これが白鵬の相撲でした。誰もが認める横綱らしい品のある相撲でした。 2000年15歳で来日した白鵬も、今年で36歳です。満身相違の体のはずです。土俵で相対する力士は、白鵬よりみな若くて元気です。横綱である以上、負けるわけにはいけません。以前のような取り口で勝つのが難しくなれば、取り口が荒くなってしまうのも仕方ないことです。勝つのは横綱の使命だからです。 6場所休んだ後の今年の名古屋場所。その間、新型コロナに感染し、右膝の手術もしました。万全でない体調をおしての出場。覚悟を持っての出場です。 千秋楽。大関照ノ富士との対戦です。呼び出しが白鵬の名を呼び上げます。白鵬はすぐには上がらず、しばらくの間、土俵に頭をつけていました。土俵の神様に、これまでの感謝と、この一番を無事に取り終える事を、お願いしていたのかも知れません。全勝優勝はきっと土俵の神様からのご褒美でしょう。 土俵を去る時がついにやって来ました。これだけの記録を残した大横綱です。相撲協会も、「ご苦労さま。ありがとう。」という態度で臨むかと思っていたら、何と白鵬に対する、いじめとしか思えないような態度言動にでます。取り口、審判に対する態度、土俵外での振舞いを問題に上げ、年寄株取得や親方になるのに条件を付けるという、前代未聞の行為に出ました。 八百長や賭博、暴力事件などで、相撲界に不祥事が起きた時には、白鵬が横綱として、一矢面に立ち謝罪し相撲界を救いました。それと比べたら、取り口や土俵外の振る舞いなど小さい小さい。白鵬がどんな思いで横綱として土俵に上がってきたのか、相手の気持ちを思い量る事が出来ない、相撲協会の度量の狭さを、目の当たりにした重いです。 2001年5月夏場所。右膝を怪我しながら優勝した貴乃花に、当時の小泉首相が、賞状を渡しながら貴乃花を褒め称えました。相撲協会が褒め称えないのなら、私一人でも褒め称えたいと思います。「痛みに耐えて、よく頑張った。感動した。」

第13段 東京パラリンピック

東京パラリンピック

コロナ禍の中、パラリンピックも何とか無事に終わりました。緊急事態宣言下の東京に、161にも及ぶ参加国・地域から、およそ4000人の人々が集まりました。爆発的な感染が心配されましたが、パラリンピックを直接原因とするクラスタ―の発生もなく無事に終わり、とりあえず良かったです。  身体障害者による一番大きな国際競技会。義足をつけて走ったり、車椅子でボールを打ち合う。パラリンピックに対する私の認識はその程度のものでした。しかし、今回テレビで幾つかの競技を見て、私の認識は間違っていました。ガーン!頭をハンマーで叩かれました。彼ら・彼女らは皆アスリートでした。健常者の競技者と何も変わらないアスリートでした。
 ボッチャ。数メートル離れたジャックと呼ばれる白い球に、自分のボールをどれだけ近づけるかを争う競技です。投げるだけだから、簡単かと思うのですが、それがいやいや。息詰まる神経戦です。
 ジャックとの距離はコンパスのような用具で測るので、ミリメートル単位の勝負です。相手より近く投げるには、どこに落とすか。相手のボールをどう邪魔するか。一球一球考えに考え、不自由な体を制御しながらボールを投げます。ボールが落ちるまでの時間は短いですが、見ている方は息を殺して見ています。ゲームが終わると、ホッとため息がこぼれてしまいます。刀をボールに変えた真剣勝負です。
 水泳。手足が不自由だったり、なかったりするのに、どうやったらあんなに速く上手に泳げるんだろう。想像を絶する努力が、その裏にはあるはずです。
 陸上。車椅子で走る姿は、スポーツカーのレースです。素晴らしい記録が出たときの、義足をつけて走ったり飛んだりした姿には、美しさが現れていました。
 車椅子バスケにラグビー。球技に名を借りた格闘技です。特に車椅子ラグビー。筋力が弱くてボールコントロールが出来ない選手は、相手選手の邪魔をするために、車椅子ごとぶつかっていきます。その時の衝撃音には凄いものがあります。完全に格闘技です。
 車椅子テニス。足の長いボールを打ち合うだけだと思っていたら、全く間違っていました。ボレーにスマッシュ。その度ごとに、コートを前後左右に車椅子で走り回ります。ボールを背に落下点まで走り、振り向きざまにボールを打ち返すプレーは、素晴らしすぎて言葉がありません。文句なく超一流のアスリートです。
 障碍者のスポーツ競技は、1948年(昭和23年)にルードウィッヒ・グッドマン博士が、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院内で行ったのが、最初と言われています。第2次世界大戦で脊髄を損傷した兵士の、リハビリのために実施されました。競技はアーチェリー。参加人数は、車椅子使用の入院患者16人だけだったそうです。
 当初は病院内だけの競技大会だったのが、会を重ねる内に参加者が増え、1952年(昭和27年)には、ついに国際大会にまで大きくなりました。当時はまだパラリンピックという呼称は使われず、国際ストーク・マンデビル競技大会と呼ばれていました。
 では、パラリンピックという名称は何時から?それは何と1964年(昭和39年)開催の東京からでした。東京オリンピックと同時に開催された、第13回ストーク・マンデビル競技大会を、パラリンピックと呼んで競技会を実施しました。当時の参加国・地域は22.参加人数は400人弱でした。半世紀かかってパラリンピックが東京に帰って来ました。おかえり。  選手たちは、次のような事をよく口にしていた気がします。「失ったものをあれこれ考え悩むより、今あるもの、残された機能を有効に使おう」。凄く前向きな、胸に響く言葉です。

第12段 米軍のアフガン撤退

問われる主体的意思

 それはまるで映画のワンシーンのようでした。テレビ画面に映っている映像は、2機の旅客機が超高層ビルに衝突し、ビルが崩れ落ちるものでした。Unbelievable.
あってはならない信じられない光景が、テレビ画面の中で繰り広げられていました。
 2001年9月11日。イスラム教過激派のテロ組織アルカイダによって、ハイジャックされた旅客機2機が、ニューヨークの世界貿易センター北棟と南棟に突入しました。両棟は大勢の人を巻き込みながら倒壊。その間およそ3時間。阿鼻叫喚の地獄の世界がそこに現れました。
 また同じころ、バージニア州アーリントンのアメリカ国防総省(ペンタゴン)にも、旅客機が1機突入しました。ペンタゴンは、陸軍、海軍、空軍、海兵隊の4軍を束ねるアメリカ国防の本庁です。この行為は、テロ組織アルカイダのアメリカに対する宣戦布告に等しい行為です。
 アメリカ同時多発テロ(9・11事件)。人的被害は死者3000人以上、負傷者も35000人以上と言われています。普段どおりの生活をしていた大勢の一般の人々を、一瞬のうちに地獄に落とした卑劣極まりない行為です。如何なる言い訳も通じない、悪魔の行為です。
 アメリカは報復に立ち上がりました。首謀者を捕まえ報いを与えるために。首謀者はビン・ラディン。当時はアフガニスタンを支配していた、イスラム原理主義者集団のタリバンに、ビン・ラディンは保護されていました。アメリカは引渡しを要求したが、タリバン側は拒否しました。業を煮やしたアメリカはついに実力行使に出ました。20年に及ぶアフガン戦争の始まりです。
 アフガニスタンってどこ?どんな国?アジアの東の外れに住んでいる私たち日本人にとってアフガニスタンは所在も国情もよく知らない国です。そこでちょっと調べてみました。
 アフガニスタンの地は、紀元前の時代から東西を繋ぐ交通の要衝地でした。シルクロードが通り、各地域の物産や文化が行き来する中継地でした。人の往来も激しく、かなり繁栄していたと想像できます。
 ところがアフガニスタンにとって、この通商の要衝地ということが、あだになってしまいました。周囲の強国から何時も狙われ、その支配を受けることになってしまいました。
 有名の国を挙げれば次になります。アケメネス朝ペルシア(前550~前330)、アレクサンドロス帝国(前334~前323)、セレウコス朝シリア(前312~前64)、ササン朝ペルシア(226~651)、モンゴル帝国(1206~14世紀後半)などです。近現代に入ると、国内勢力がロシア(ソ連)側とイギリス側に分かれて、長い内線状態が続きました。残念なことに、長い歴史の中、アフガニスタンには自国民による強い国家が生まれませんでした。
 タリバンを追放し、ビン・ラディンを殺害したアメリカは、アフガニスタンの民主化に着手します。テロの原因は貧困。民主化政策によって治安が戻り、人権が回復し、経済が良くなれば、国は豊かになり、貧困もなくなります。アメリカはそこでアフガニスタンに1兆ドル(約110兆円)以上のお金を支援し、30万人のアフガン軍を訓練し、装備を整えました。しかし20年経った今、またタリバンが戻ってしまい、元に戻ってしまいました。
 何故?政権上層部の腐敗もあったかもしれません。長い支配の歴史から、強い者に従うという気持ちのほうが、自分たちで何とかしようという気持ちより、強かったのかも知れません。学校生活で言えば、強い先生、怖い先生の前では素直にして言うことは聞くが、先生がいなくなると・・・。
 米軍が撤退した今からが、本当の民主化の戦いの始まりかも知れません。

第11段 東京オリンピック

東京オリンピック

 第32回夏季オリンピック東京大会が、ついに始まりました。4回目の非常事態宣言が出され、新型コロナウイルスに感染した人が、東京では毎日1,000人を超える状況下での開催です。競技場の外では、オリンピックに反対する人たちが、中止を求めて運動しています。本来なら日本国民総出で、世界からの人々を笑顔でもって、「ようこそ日本へ」と歓迎しているはずです。ちょっと可哀想なオリンピックになってしまいました。
 開会式。いつもならオリンピックの開催国が、ここぞとばかりに、お金と力を入れて演出するので、どうしても派手なものになりがちです。ところが今回は違っていました。どちらかと言うと、地味で落ち着いていた感じがしました。新型コロナウイルスが蔓延している中ですから、仕方ないですよね。
 そんな中でも、心に強く訴えたものが幾つかありました。
 先ずは国旗の入場です。国旗を会場に運ぶメンバーの中に、救急隊員を見つけた時には、胸が熱くなりました。感謝の気持ちとともに。
 次に動くピクトグラム(絵文字)です。着ぐるみを着たパフォーマーが、次々と競技種目を演じる姿には、「上手いもんだな」と感心と笑いが出てきました。
 三つ目には、約1,300台のドローンを使った演出です。ドローンが丸い球体、地球を形作った時には、思わず「凄い、きれい」と、家族揃ってテレビに向かって叫んでいました。
 と言うわけで、今回は、困難な状況下で行われるオリンピックなので、過去に似たような状況、または中止になったオリンピックに、どんなものがあったかを調べてみました。
 先ずは中止。過去に3回ありました。
 第6回ベルリン大会(1916年)。直前に第1次世界大戦が始まる。ヨーロッパ中が戦場になったので、中止は当然ですよね。中止になったベルリン大会は、その後、第11回大会として1936年に開催されました。
 第12回東京大会(1940年)。1940年は日本では皇紀2600年(神武天皇即位2600年)に当たるので、国家的祝祭行事として計画。1937年に日中戦争が起こってしまったため中止に。IOCは急遽ヘルシンキに代替地を求めたが、ソ連(現ロシア)のフィンランド侵攻で中止に。
 第13回ロンドン大会(1944年)。ヒトラーのポーランド侵攻により、第2次世界大戦が勃発したため中止に。
 平和の祭典が戦争で中止になるのも、皮肉なものですね。
 次に中止にはならなかったが、大変変則的に開催となったオリンピックです。
 第22回モスクワ大会(1980年)。1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したため、制裁措置として米国カーター大統領がボイコットを表明。その結果、西側諸国が大会に不参加となりました。
 第23回ロサンゼルス大会(1984年)。モスクワ大会の報復措置として、東側陣営、東欧諸国が不参加。
 政治に翻弄される選手たちは可哀想ですね。
 では、今回のように感染症との関係はどうでしょうか。こちらもいろいろありました。
 第7回アントワープ大会(1920年)。病気は第1次世界大戦中に発生したスペイン風邪(インフルエンザ)です。世界でおよそ4000万人が死亡したそうです。新型コロナウイルスでの死亡数は、現在世界で約400万人だそうです。スペイン風邪の猛威は想像を絶します。
 第16回メルボルン大会(1956年)。オーストラリアの検疫に関する法律で、馬が入国できなくなり、馬術競技だけは何と、スウェーデンのストックホルムで実施されることになりました。
 第18回東京大会(1964年)。当時コレラが流行したそうです。大会が始まる2ヶ月前から大会に関係する約12,000人に予防接種をしたそうです。なんだか今回にちょっと似ていますね。
 第22回バルセロナ大会(1992年)。エイズに罹ったバスケットのスーパースター、マジック・ジョンソンが、米国代表としてオリンピックに参加したいと希望を発表して物議をかもしました。
 第31回リオ大会(2016年)。蚊を媒介とするジカ熱が問題になりました。妊婦がこのジカ熱に罹ると胎児も感染し、小頭症児童として生まれることから、大きな問題になりました。
 オリンピックといえば平和の祭典。今では当たり前のように思われていますが、影の部分もあるもんですね。オリンピック発祥の地はギリシアですが、その古代ギリシアには、本土だけで150ものポリス(都市国家)があったそうです。アテネ、スパルタはその代表的なポリスですが、領土や政治の主導権争いで、紛争続きだったそうです。そんな時、オリンピックが始まると、戦争は中断中止になりました。ポリスの市民はホットして喜んだでしょうね。
 また、次のような説話も残されています。ある年ギリシアで伝染病が蔓延したそうです。そこでエーリスというポリスの王が、主神アポロンにお伺いをたてたところ、「オリンピックを開け」、というお告げがあったそうです。そこでオリンピックを開催したら、伝染病がおさまったそうです。なんだか今回のオリンピックに似ていませんか。
 新型コロナウイルスが蔓延する中で始まった東京オリンピック。主神アポロンの言葉を信じ、自宅で選手たちの素晴らしいパフォーマンスに、声援を送りたいと思います。

第10段 学習の原点は、読み・書き・ソロバン

新学力観に振り回されないために

ある夏の教育相談会
母親:おはようございます。今日はよろしくお願いします。
塾長:おはようございます。暑い中ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。
母親:我が家に小4の息子がいるんですが、最近学校で、友達からいろいろクイズを出されるみたいで、そのクイズがプログラム何とか、発展何とか、というものらしくて、解けないのは自分だけみたいで、ちょっと落ち込んでいるみたいなんです。
塾長:そうですか。息子さん、さぞかし悔しいことでしょう。その問題はおそらく新学力観を身につけるためのものでしょう。本当はお友達も解けてないです。塾でやったから答えを知っているだけです。息子さんとなんら変わりませんから、安心して下さい。
母親:新学力観?
塾長:はい、これまでの詰め込み教育の反省から出された教育間で、変化に対応できる能力、生きる力、自ら学び考える力、問題解決能力、個性的な能力などを重要視する教育などと言われています。
母親:なんか難しそうですね。
塾長:そうですね。しかし批判をおそれずに言い換えれば、頓知ですよ。何かあった時に即座に働く知恵ですから。 ここでちょっとクイズを。冬、春、白い、夏。この4つの言葉の中で、仲間外れはどれでしょうか?
母親:白です。
塾長:正解。では、理由を学問的に説明して下さい。
母親:え?
塾長:では私が説明しましょう。冬、春、夏は名詞で、白いは形容詞です。これが一般的な考え方です。しかしお母さんは、季節を表す言葉とそうでないもの、と考えたのではありませんか。
母親:はい、そうです。
塾長:それでいいんです。新学力観にたてば、答えは複数あってよいわけですから。まだ考えられますよ。白いから何を連想しますか?
母親:雪です。
塾長:春の初めには、まだ雪が降ることがありますよね。春のドカ雪と言いますしね。なごり雪という言葉も、春のイメージがついていますよね。そうすると、仲間外れは夏になります。
母親:なるほどそうですね。でもちょっと屁理屈ですね。
塾長:自ら学び考え、問題を解決する能力ですので、屁理屈大いに結構、大歓迎です。
ところで、何かを考えるには何が必要でしょうか?
母親:知識ですか。
塾長:その通りです。知識がないと何も考えられませんよね。だから知識はとても重要です。行過ぎた詰め込み教育は問題ですが、知識(基礎学力)がなければ、創造性は生まれません。OECD(経済協力開発機構)が行っているPISAと呼ばれる国際的な学習到達度に関する調査(2018年度調査)では、日本は5位になっています。先進国で日本より上位の国はありません。何も日本より下位の国の真似をする必要はありませんよね。
読み、書き、算盤は日本の教育の原点です。シューレでは、この信念の下、音読、覚えるまでの反復練習、計算力の向上を目指して、夏期講習を実施しています。是非ご参加ください。
母親:はい、必ず参加させます。
二人:今日はどうもありがとうございました

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