塾長の徒然草日記

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塾長の徒然草日記

徒然なるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、
そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。
鎌倉時代末期、吉田兼好(兼好法師)が書いた随筆「徒然草」の冒頭で
す。私も彼を真似て心に思い浮かぶいろいろなことを書き綴ってみます。

第16段 決断と覚悟

 『嫌われた監督』(鈴木忠平著 文藝春秋)。本のタイトルに引かれて、つい手が出てしまいました。中日の監督時代の落合博満の物語です。落合は球団側からチーム強くしてくれ、優勝させてくれ、と頼まれて監督を引き受けたそうです。落合の言動は全て契約を実行するためのもので、実情を知らない他人からは何を言われようと構わない、と腹を決めたそうです。その結果、実績を残しても嫌われてしまいました。嫌われるのを覚悟しての監督就任。並大抵の覚悟と決断ではありません。
 そこで、本を読んで、自分の人生の決断と覚悟をちょっと振り返ってみました。
 人生最初の決断はやはり高校受験でしょう。
 当時私が卒業した中学校では、地理的関係から、成績上の中から中の上クラスの生徒は、北区のN高校や地元のK高校を志願するのが一般的でした。本命がN、それがだめならK高校。これがスタンダードでした。もちろん私もN高校‐K高校でした。
 受験勉強もそれなりに一生懸命にやったつもりでしたが、勉強にむらがありました。どうしても好きな教科、得意な教科に力を入れて、他の教科はやや手を抜いていました。英数が出来ればそれだけで自己満足していました。
 当然成績は思ったようには上がらず、受験校は地元のK高校に決定。張り詰めていた気持ちがやや緩みかけた状態で入試当日を迎えます。英数は順調に試験を終えたのですが、理科には冷や汗をかく羽目になってしまいました。「落ちたらどうしよう」、という気持ちをもちながら結果発表を見に行った記憶があります。
 次の人生の決断は大学受験です。
 入学したK高校では楽しい高校生活を送りました。K高校は前身が旧制中学だったせいか、校則の縛りはわりと緩かったです。加えて、当時はやや左系の先生がわりといたので、よく言えば、生徒の自主性を重んじる。悪く言えば、ほったらかし。そんな雰囲気でしたので、授業が自習になると、学校を抜け出したりしていました。当然学校へ戻ったら生徒指導部へ直行。指導部の先生から、ありがたい話を何度も何度も聞かされました。
 そんな状況なので成績も下降線。中の下位まで下がってしまいました。進路相談で「行ける大学などありません」と言われ、やっと目が覚める有様でした。自覚のない受験生の見本です。同じような状況でも、自覚のあった友人の何人かは、現役だ、信州、岐阜、愛教大に合格しました。中には三浪してまでして名大に進んでいった執念の鬼もいました。
 で、私ですか。一浪してなんとか日大に入ることが出来ました。最近、理事長が背任や脱税容疑で世間を賑わしているあの大学です。私が入学した頃は、誰でも入れる三流大学と言われていました。それが卒業して何十年も経つと、大学のランクが上がってビックリ。早慶、MARCH(マーチ、明治、青山、立教、中央、法政)、日東駒専と第三グループに入っているのにビックリです。
 第三の人生の選択は、卒業後の進路です。
 大学ではそれまでと違って一生懸命に勉強しました。ゼミ(研究室)に入ろうと決めた2年生になってからは、図書館と下宿の往復だけの日々が続きました。勉強の甲斐があって無事入室を許され、1年が経ち後輩ができると、指導教授や助手の先生から、後輩の面倒を任され、大学に残ることに決めました。同期の者が、A社の筆記試験はどうだった、B社の面接はこうだった、と喫茶店で情報交換する側で、辞書を片手に原書と取っ組み合いをしていました。
 無事合格。大学院生は学部生と違い、一応研究者の一員の扱い。自分の机が与えられ、書庫への出入りも許され、学問の世界に浸ることができた幸せな2年間でした。
 2年が経ち、自分としてはこのまま上の課程に進みたい希望を持っていましたが、体調を崩し家に帰ることになりました。さて職はどうする。たまたま取っていた教員免許のおかげで、高校の教師になりました。
 南区にある男子校のD工業高校(現在は男女共学のD高校)で3年余りお世話になり、その後は昭和区にある男子校のN工業高校に30年以上お世話になりました。
 通常ならその間に、正規の教員になろうと採用試験の勉強をしたり、伝を使っていろいろ就職活動をするのですが、そのような気になかなかなれず、今日まで教員生活を送って来てしまいました。
 長い人生、人はいろいろな状況において様々な決断をします。その決断は、その人において全て正解だと思います。ただ、こうすれば良かったのに、という思いが残るとすれば、それはその決断に覚悟がちょっと足りなかったのかも知れません。
 これからの人生、悔いのない選択ができるように、より一層の覚悟を持って決断していきたいと思います。

第15段 うちの子、ミスが多すぎるんですが…

‐繰り返しの重要性‐

ある冬の教育相談会

母 親:おはようございます。今日はよろしくお願いします。

塾 長:おはようございます。寒い中お越しいただき、ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。

母 親:実は、中学生になる子がいるんですが、テストでミスが多くて困っているんです。テストのたびに、出来た、今度は出来た、と言って学校から帰って来るんですが、返ってきた答案は本人が言う点数より、10点15点と何時も低くて。どうしたら良いんでしょう。

塾 長:そうですか。本人もショックでしょうね。正負の符号の書き間違い。文字や次数の書き忘れ。解答の写し間違い、解答欄を間違える。例えば、そんなところですか。

母 親:はい、そうです。

塾 長:典型的なケアレスミスですね。

母 親:性格的な問題でしょうか。

塾 長:そうですね。勿論そういった面もありますが、大丈夫ですよ。何とかなると思いますよ。

母 親:本当ですか。どうすれば?

塾 長:基本の繰り返しです。数学で言えば、正負の計算、文字式、方程式、因数分解、平方根といった計算力を主とする分野を、ミスをしなくなるまで繰り返しトレーニングすれば、随分と違ってきます。

母 親:それだけで?

塾 長:何でもない簡単そうに思えますけど、そうじゃないですよ。思った以上に大変ですよ。小学生の例ですが、シューレでは授業の始めに100ます計算をしています。足し算から始まり割り算までを、各計算10回ずつ行っています。最初は5分、6分とかかっていた子が、半年ほどすると2分台、3分台になります。そうすると計算に自信がつき、小数や分数が混じった難しそうな計算問題にも、喜んで挑戦するようになります。繰り返しの小さな成功体験をたくさんすることで、自信もつきミスも減っていきます。シューレではこの冬、学習分野をピンポイントで絞った弱点克服講座を実施しています。受講して自信を付けて下さい。笑顔で3学期を迎えましょう。

第14段 横綱白鵬引退

横綱白鵬引退

 通算勝利 1187勝 幕内勝利 1093勝 横綱勝利 899勝 幕内優勝 45回 全勝優勝 16回 横綱在位 84場所
 この数字何だか分かりますか。白鵬が残した数字です。全て歴代1位の数字です。これから先、誰も達成できないだろう前人未踏の記録です。平成の大横綱白鵬が、名古屋場所全勝優勝を花道に、数々の大記録を残してついに土俵を去りました。 2000年、15歳の白鵬は力士を夢見て来日しました。一緒に来日した仲間は、次々に相撲部屋にスカウトされるのに、白鵬だけは声がかかりません。身長175cm、体重60k余りの体では仕方ないですね。しかし相撲の神は彼を見放しませんでした。諦めて帰国する夜ぎりぎりのところで、宮城野部屋への入門が決まりました。 2001年5月夏場所。初めて番付に名が載ります。もちろん序の口です。結果は何と負け越し。後の大横綱の相撲人生が負け越しスタート。相撲の神様も意地悪ですね。 山盛り4杯のご飯を、1リットルの牛乳で流し込む食事を重ねて体を大きくし、辛く厳しい修行に耐え、だんだん力を付けていきます。2004年1月初場所で新十両。その5月夏場所で新入幕。2005年1月初場所で小結。同3月大阪場所で関脇。2006年5月夏場所で大関、しかも初優勝。そして2007年7月名古屋場所でついに横綱に上り詰めました。 今でこそ、相撲の取り口が荒い、と非難されていますが、本来の取り口はそうではありませんでした。鋭い立会いの踏み込みから、左の前まわしを奪い、右も差して組み止め、相手に何もさせずに寄り切る。これが白鵬の相撲でした。誰もが認める横綱らしい品のある相撲でした。 2000年15歳で来日した白鵬も、今年で36歳です。満身相違の体のはずです。土俵で相対する力士は、白鵬よりみな若くて元気です。横綱である以上、負けるわけにはいけません。以前のような取り口で勝つのが難しくなれば、取り口が荒くなってしまうのも仕方ないことです。勝つのは横綱の使命だからです。 6場所休んだ後の今年の名古屋場所。その間、新型コロナに感染し、右膝の手術もしました。万全でない体調をおしての出場。覚悟を持っての出場です。 千秋楽。大関照ノ富士との対戦です。呼び出しが白鵬の名を呼び上げます。白鵬はすぐには上がらず、しばらくの間、土俵に頭をつけていました。土俵の神様に、これまでの感謝と、この一番を無事に取り終える事を、お願いしていたのかも知れません。全勝優勝はきっと土俵の神様からのご褒美でしょう。 土俵を去る時がついにやって来ました。これだけの記録を残した大横綱です。相撲協会も、「ご苦労さま。ありがとう。」という態度で臨むかと思っていたら、何と白鵬に対する、いじめとしか思えないような態度言動にでます。取り口、審判に対する態度、土俵外での振舞いを問題に上げ、年寄株取得や親方になるのに条件を付けるという、前代未聞の行為に出ました。 八百長や賭博、暴力事件などで、相撲界に不祥事が起きた時には、白鵬が横綱として、一矢面に立ち謝罪し相撲界を救いました。それと比べたら、取り口や土俵外の振る舞いなど小さい小さい。白鵬がどんな思いで横綱として土俵に上がってきたのか、相手の気持ちを思い量る事が出来ない、相撲協会の度量の狭さを、目の当たりにした重いです。 2001年5月夏場所。右膝を怪我しながら優勝した貴乃花に、当時の小泉首相が、賞状を渡しながら貴乃花を褒め称えました。相撲協会が褒め称えないのなら、私一人でも褒め称えたいと思います。「痛みに耐えて、よく頑張った。感動した。」

第13段 東京パラリンピック

東京パラリンピック

コロナ禍の中、パラリンピックも何とか無事に終わりました。緊急事態宣言下の東京に、161にも及ぶ参加国・地域から、およそ4000人の人々が集まりました。爆発的な感染が心配されましたが、パラリンピックを直接原因とするクラスタ―の発生もなく無事に終わり、とりあえず良かったです。  身体障害者による一番大きな国際競技会。義足をつけて走ったり、車椅子でボールを打ち合う。パラリンピックに対する私の認識はその程度のものでした。しかし、今回テレビで幾つかの競技を見て、私の認識は間違っていました。ガーン!頭をハンマーで叩かれました。彼ら・彼女らは皆アスリートでした。健常者の競技者と何も変わらないアスリートでした。
 ボッチャ。数メートル離れたジャックと呼ばれる白い球に、自分のボールをどれだけ近づけるかを争う競技です。投げるだけだから、簡単かと思うのですが、それがいやいや。息詰まる神経戦です。
 ジャックとの距離はコンパスのような用具で測るので、ミリメートル単位の勝負です。相手より近く投げるには、どこに落とすか。相手のボールをどう邪魔するか。一球一球考えに考え、不自由な体を制御しながらボールを投げます。ボールが落ちるまでの時間は短いですが、見ている方は息を殺して見ています。ゲームが終わると、ホッとため息がこぼれてしまいます。刀をボールに変えた真剣勝負です。
 水泳。手足が不自由だったり、なかったりするのに、どうやったらあんなに速く上手に泳げるんだろう。想像を絶する努力が、その裏にはあるはずです。
 陸上。車椅子で走る姿は、スポーツカーのレースです。素晴らしい記録が出たときの、義足をつけて走ったり飛んだりした姿には、美しさが現れていました。
 車椅子バスケにラグビー。球技に名を借りた格闘技です。特に車椅子ラグビー。筋力が弱くてボールコントロールが出来ない選手は、相手選手の邪魔をするために、車椅子ごとぶつかっていきます。その時の衝撃音には凄いものがあります。完全に格闘技です。
 車椅子テニス。足の長いボールを打ち合うだけだと思っていたら、全く間違っていました。ボレーにスマッシュ。その度ごとに、コートを前後左右に車椅子で走り回ります。ボールを背に落下点まで走り、振り向きざまにボールを打ち返すプレーは、素晴らしすぎて言葉がありません。文句なく超一流のアスリートです。
 障碍者のスポーツ競技は、1948年(昭和23年)にルードウィッヒ・グッドマン博士が、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院内で行ったのが、最初と言われています。第2次世界大戦で脊髄を損傷した兵士の、リハビリのために実施されました。競技はアーチェリー。参加人数は、車椅子使用の入院患者16人だけだったそうです。
 当初は病院内だけの競技大会だったのが、会を重ねる内に参加者が増え、1952年(昭和27年)には、ついに国際大会にまで大きくなりました。当時はまだパラリンピックという呼称は使われず、国際ストーク・マンデビル競技大会と呼ばれていました。
 では、パラリンピックという名称は何時から?それは何と1964年(昭和39年)開催の東京からでした。東京オリンピックと同時に開催された、第13回ストーク・マンデビル競技大会を、パラリンピックと呼んで競技会を実施しました。当時の参加国・地域は22.参加人数は400人弱でした。半世紀かかってパラリンピックが東京に帰って来ました。おかえり。  選手たちは、次のような事をよく口にしていた気がします。「失ったものをあれこれ考え悩むより、今あるもの、残された機能を有効に使おう」。凄く前向きな、胸に響く言葉です。

第12段 米軍のアフガン撤退

問われる主体的意思

 それはまるで映画のワンシーンのようでした。テレビ画面に映っている映像は、2機の旅客機が超高層ビルに衝突し、ビルが崩れ落ちるものでした。Unbelievable.
あってはならない信じられない光景が、テレビ画面の中で繰り広げられていました。
 2001年9月11日。イスラム教過激派のテロ組織アルカイダによって、ハイジャックされた旅客機2機が、ニューヨークの世界貿易センター北棟と南棟に突入しました。両棟は大勢の人を巻き込みながら倒壊。その間およそ3時間。阿鼻叫喚の地獄の世界がそこに現れました。
 また同じころ、バージニア州アーリントンのアメリカ国防総省(ペンタゴン)にも、旅客機が1機突入しました。ペンタゴンは、陸軍、海軍、空軍、海兵隊の4軍を束ねるアメリカ国防の本庁です。この行為は、テロ組織アルカイダのアメリカに対する宣戦布告に等しい行為です。
 アメリカ同時多発テロ(9・11事件)。人的被害は死者3000人以上、負傷者も35000人以上と言われています。普段どおりの生活をしていた大勢の一般の人々を、一瞬のうちに地獄に落とした卑劣極まりない行為です。如何なる言い訳も通じない、悪魔の行為です。
 アメリカは報復に立ち上がりました。首謀者を捕まえ報いを与えるために。首謀者はビン・ラディン。当時はアフガニスタンを支配していた、イスラム原理主義者集団のタリバンに、ビン・ラディンは保護されていました。アメリカは引渡しを要求したが、タリバン側は拒否しました。業を煮やしたアメリカはついに実力行使に出ました。20年に及ぶアフガン戦争の始まりです。
 アフガニスタンってどこ?どんな国?アジアの東の外れに住んでいる私たち日本人にとってアフガニスタンは所在も国情もよく知らない国です。そこでちょっと調べてみました。
 アフガニスタンの地は、紀元前の時代から東西を繋ぐ交通の要衝地でした。シルクロードが通り、各地域の物産や文化が行き来する中継地でした。人の往来も激しく、かなり繁栄していたと想像できます。
 ところがアフガニスタンにとって、この通商の要衝地ということが、あだになってしまいました。周囲の強国から何時も狙われ、その支配を受けることになってしまいました。
 有名の国を挙げれば次になります。アケメネス朝ペルシア(前550~前330)、アレクサンドロス帝国(前334~前323)、セレウコス朝シリア(前312~前64)、ササン朝ペルシア(226~651)、モンゴル帝国(1206~14世紀後半)などです。近現代に入ると、国内勢力がロシア(ソ連)側とイギリス側に分かれて、長い内線状態が続きました。残念なことに、長い歴史の中、アフガニスタンには自国民による強い国家が生まれませんでした。
 タリバンを追放し、ビン・ラディンを殺害したアメリカは、アフガニスタンの民主化に着手します。テロの原因は貧困。民主化政策によって治安が戻り、人権が回復し、経済が良くなれば、国は豊かになり、貧困もなくなります。アメリカはそこでアフガニスタンに1兆ドル(約110兆円)以上のお金を支援し、30万人のアフガン軍を訓練し、装備を整えました。しかし20年経った今、またタリバンが戻ってしまい、元に戻ってしまいました。
 何故?政権上層部の腐敗もあったかもしれません。長い支配の歴史から、強い者に従うという気持ちのほうが、自分たちで何とかしようという気持ちより、強かったのかも知れません。学校生活で言えば、強い先生、怖い先生の前では素直にして言うことは聞くが、先生がいなくなると・・・。
 米軍が撤退した今からが、本当の民主化の戦いの始まりかも知れません。

第11段 東京オリンピック

東京オリンピック

 第32回夏季オリンピック東京大会が、ついに始まりました。4回目の非常事態宣言が出され、新型コロナウイルスに感染した人が、東京では毎日1,000人を超える状況下での開催です。競技場の外では、オリンピックに反対する人たちが、中止を求めて運動しています。本来なら日本国民総出で、世界からの人々を笑顔でもって、「ようこそ日本へ」と歓迎しているはずです。ちょっと可哀想なオリンピックになってしまいました。
 開会式。いつもならオリンピックの開催国が、ここぞとばかりに、お金と力を入れて演出するので、どうしても派手なものになりがちです。ところが今回は違っていました。どちらかと言うと、地味で落ち着いていた感じがしました。新型コロナウイルスが蔓延している中ですから、仕方ないですよね。
 そんな中でも、心に強く訴えたものが幾つかありました。
 先ずは国旗の入場です。国旗を会場に運ぶメンバーの中に、救急隊員を見つけた時には、胸が熱くなりました。感謝の気持ちとともに。
 次に動くピクトグラム(絵文字)です。着ぐるみを着たパフォーマーが、次々と競技種目を演じる姿には、「上手いもんだな」と感心と笑いが出てきました。
 三つ目には、約1,300台のドローンを使った演出です。ドローンが丸い球体、地球を形作った時には、思わず「凄い、きれい」と、家族揃ってテレビに向かって叫んでいました。
 と言うわけで、今回は、困難な状況下で行われるオリンピックなので、過去に似たような状況、または中止になったオリンピックに、どんなものがあったかを調べてみました。
 先ずは中止。過去に3回ありました。
 第6回ベルリン大会(1916年)。直前に第1次世界大戦が始まる。ヨーロッパ中が戦場になったので、中止は当然ですよね。中止になったベルリン大会は、その後、第11回大会として1936年に開催されました。
 第12回東京大会(1940年)。1940年は日本では皇紀2600年(神武天皇即位2600年)に当たるので、国家的祝祭行事として計画。1937年に日中戦争が起こってしまったため中止に。IOCは急遽ヘルシンキに代替地を求めたが、ソ連(現ロシア)のフィンランド侵攻で中止に。
 第13回ロンドン大会(1944年)。ヒトラーのポーランド侵攻により、第2次世界大戦が勃発したため中止に。
 平和の祭典が戦争で中止になるのも、皮肉なものですね。
 次に中止にはならなかったが、大変変則的に開催となったオリンピックです。
 第22回モスクワ大会(1980年)。1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したため、制裁措置として米国カーター大統領がボイコットを表明。その結果、西側諸国が大会に不参加となりました。
 第23回ロサンゼルス大会(1984年)。モスクワ大会の報復措置として、東側陣営、東欧諸国が不参加。
 政治に翻弄される選手たちは可哀想ですね。
 では、今回のように感染症との関係はどうでしょうか。こちらもいろいろありました。
 第7回アントワープ大会(1920年)。病気は第1次世界大戦中に発生したスペイン風邪(インフルエンザ)です。世界でおよそ4000万人が死亡したそうです。新型コロナウイルスでの死亡数は、現在世界で約400万人だそうです。スペイン風邪の猛威は想像を絶します。
 第16回メルボルン大会(1956年)。オーストラリアの検疫に関する法律で、馬が入国できなくなり、馬術競技だけは何と、スウェーデンのストックホルムで実施されることになりました。
 第18回東京大会(1964年)。当時コレラが流行したそうです。大会が始まる2ヶ月前から大会に関係する約12,000人に予防接種をしたそうです。なんだか今回にちょっと似ていますね。
 第22回バルセロナ大会(1992年)。エイズに罹ったバスケットのスーパースター、マジック・ジョンソンが、米国代表としてオリンピックに参加したいと希望を発表して物議をかもしました。
 第31回リオ大会(2016年)。蚊を媒介とするジカ熱が問題になりました。妊婦がこのジカ熱に罹ると胎児も感染し、小頭症児童として生まれることから、大きな問題になりました。
 オリンピックといえば平和の祭典。今では当たり前のように思われていますが、影の部分もあるもんですね。オリンピック発祥の地はギリシアですが、その古代ギリシアには、本土だけで150ものポリス(都市国家)があったそうです。アテネ、スパルタはその代表的なポリスですが、領土や政治の主導権争いで、紛争続きだったそうです。そんな時、オリンピックが始まると、戦争は中断中止になりました。ポリスの市民はホットして喜んだでしょうね。
 また、次のような説話も残されています。ある年ギリシアで伝染病が蔓延したそうです。そこでエーリスというポリスの王が、主神アポロンにお伺いをたてたところ、「オリンピックを開け」、というお告げがあったそうです。そこでオリンピックを開催したら、伝染病がおさまったそうです。なんだか今回のオリンピックに似ていませんか。
 新型コロナウイルスが蔓延する中で始まった東京オリンピック。主神アポロンの言葉を信じ、自宅で選手たちの素晴らしいパフォーマンスに、声援を送りたいと思います。

第10段 学習の原点は、読み・書き・ソロバン

新学力観に振り回されないために

ある夏の教育相談会
母親:おはようございます。今日はよろしくお願いします。
塾長:おはようございます。暑い中ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。
母親:我が家に小4の息子がいるんですが、最近学校で、友達からいろいろクイズを出されるみたいで、そのクイズがプログラム何とか、発展何とか、というものらしくて、解けないのは自分だけみたいで、ちょっと落ち込んでいるみたいなんです。
塾長:そうですか。息子さん、さぞかし悔しいことでしょう。その問題はおそらく新学力観を身につけるためのものでしょう。本当はお友達も解けてないです。塾でやったから答えを知っているだけです。息子さんとなんら変わりませんから、安心して下さい。
母親:新学力観?
塾長:はい、これまでの詰め込み教育の反省から出された教育間で、変化に対応できる能力、生きる力、自ら学び考える力、問題解決能力、個性的な能力などを重要視する教育などと言われています。
母親:なんか難しそうですね。
塾長:そうですね。しかし批判をおそれずに言い換えれば、頓知ですよ。何かあった時に即座に働く知恵ですから。 ここでちょっとクイズを。冬、春、白い、夏。この4つの言葉の中で、仲間外れはどれでしょうか?
母親:白です。
塾長:正解。では、理由を学問的に説明して下さい。
母親:え?
塾長:では私が説明しましょう。冬、春、夏は名詞で、白いは形容詞です。これが一般的な考え方です。しかしお母さんは、季節を表す言葉とそうでないもの、と考えたのではありませんか。
母親:はい、そうです。
塾長:それでいいんです。新学力観にたてば、答えは複数あってよいわけですから。まだ考えられますよ。白いから何を連想しますか?
母親:雪です。
塾長:春の初めには、まだ雪が降ることがありますよね。春のドカ雪と言いますしね。なごり雪という言葉も、春のイメージがついていますよね。そうすると、仲間外れは夏になります。
母親:なるほどそうですね。でもちょっと屁理屈ですね。
塾長:自ら学び考え、問題を解決する能力ですので、屁理屈大いに結構、大歓迎です。
ところで、何かを考えるには何が必要でしょうか?
母親:知識ですか。
塾長:その通りです。知識がないと何も考えられませんよね。だから知識はとても重要です。行過ぎた詰め込み教育は問題ですが、知識(基礎学力)がなければ、創造性は生まれません。OECD(経済協力開発機構)が行っているPISAと呼ばれる国際的な学習到達度に関する調査(2018年度調査)では、日本は5位になっています。先進国で日本より上位の国はありません。何も日本より下位の国の真似をする必要はありませんよね。
読み、書き、算盤は日本の教育の原点です。シューレでは、この信念の下、音読、覚えるまでの反復練習、計算力の向上を目指して、夏期講習を実施しています。是非ご参加ください。
母親:はい、必ず参加させます。
二人:今日はどうもありがとうございました

第9段 今が辛抱のしどころ

-ワクチン接種が始まる-

 北海道570人、東京684人、愛知394人、大阪309人、沖縄240人。今日(5月28日)の朝刊に載っていた、新型コロナウイルスの新たな感染者数です。緊急事態宣言も3回目が発令中です。しかし、なかなか思うように感染者数の数字が減りません。1年前と比べると、1桁、いや県によっては2桁も違う数字かもしれません。
 国民がこれだけ自粛生活に協力しているのに、どうして思ったように数字が減らないのでしょうか。自粛疲れに自粛慣れ。1年間のマスク生活から解放されたいですよね。
 政府の実効性の上がらない政策にも一因があるかも知れません。社会のリーダーと見なされる人々の、無責任な発言や行動には、呆れてものが言えません。「率先垂範」「隗より始めよ」という言葉を、彼らには送りたいです。
 現在の世界の新型コロナも感染者数はおよそ1.6億人(多い国としては、米国約3300万人、インド約2500万人、ブラジル約1500万人、仏国約590万人、露国約490万人、英国約440万人)。この数字を世界の人口約78億人で割ると、約2%になります。50人に1人が罹ったことになります。マンモス校なら1クラスに1人は必ず感染者がいることになります。恐ろしい数字です。正真正銘パンデミックです。
 今回と同じように、感染症の大流行は、社会に大きな影響をあたえことがあります。過去にどんなことがあったでしょうか。
 先ずは思いつくのはペスト(黒死病)です。ペストの流行によって中世ヨーロッパは大混乱に陥り、大変革を迫られました。
 14世紀中頃ヨーロッパでは、フランスの王家交代(カペー朝からヴァロワ朝)を口実に、イギリス(国王の母がカペー朝出身)とフランスは100年に亘る長い戦争をしていました。戦争により、農地は荒れ生産力は落ち、人々は苦しい生活を強いられ、あちこちで農民の反乱も起きました。
 そのような状況の中でのペストの流行です。当時のヨーロッパの人口の3分の1から3分の2に当たる2000万人~3000万人の人々が死亡したそうです。その結果、これまでの経済基盤でもあり社会基盤でもあった荘園制が崩壊し、封建領主の没落が始まりました。しかし、これと反比例するこのように、王権が伸張し、ヨーロッパは中央集権国家の道を進むことになりました。
 16世紀に猛威を振るったのが天然痘でした。天然痘によって南アメリカにあった二つの帝国がこの世から姿を消しました。
 16世紀になると、スペインはアメリカ大陸侵略を始めます。この時に不幸にもアメリカ大陸に持ち込まれたのが天然痘でした。
 スペインは二人の男を南アメリカ大陸に送り込みました。コルテスとピサロです。コルテスはアステカ帝国を、ピサロはインカ帝国を征服しましたが、数百人規模の人員で一つの帝国が滅びるわけですから、凄まじい勢いで流行したことが想像できます。
日本では奈良時代に天然痘が大流行しました。天平の疫病大流行と言われています。新羅との交流の過程で日本に入って来たと考えられています。
 当時の人口の25%から35%に当たる100万人から150万人が死亡し、都でも藤原不比等の4兄弟が相次いで亡くなり、政治が止まってしまいました。
 地獄の出現です。奈良の東大寺大仏は、このような状況下で、聖武天皇が疫病平癒を祈念して建立したともいわれています。
 20世紀初頭に猛威を振るったのがインフルエンザでした。当時はスペイン風邪とも呼ばれていました。発生源でもないのにスペインとしては迷惑な話です。
 インフルエンザは第1次世界大戦中に流行しました。第1次世界大戦は1914年に始まり、1918年に終わりましたが、インフルエンザの流行は1918年からです。前年から参戦したアメリカの兵士が、ヨーロッパの戦場に持ち込んだと考えられています。
 感染者数約5億人、死者4000万人から5000万人と言われています。これでは徴兵も出来ません。インフルエンザが戦争終結の遠因になったとしたら皮肉ですね。
 日本でもワクチン接種がやっと始まりました。アメリカ(接種率47%)やイギリス(接種率54%)ではワクチン接種が進むにつれて、感染者の数が激減しています。6月中には高齢者の接種が終わり、続いて一般の国民の接種が始まります。日本ではまだ3%という低い数字ですが、ワクチンの効果は大いに期待できます。今が正念場。誘惑をグッと堪え、3密を控えましょう。そうすれば晩夏、秋の便りが届く頃には、胸一杯新鮮な空気が吸えるような気がします。元気な笑い声も街に戻ってくるでしょう。秋の行楽を楽しみにしながら、辛抱辛抱。

第8段 努力を信じる

右を見ても左を見ても、自粛、自粛、自粛。東西南北どちらを向いても、自粛の文字が溢れています。新型コロナ感染防止のため仕方ないことですが、不安、イライラ、自暴自棄、憂鬱、よくないマイナスの感情が日本中を覆い尽くそうとしています。
 そんな日本に、二人のアスリートが、明るく希望に満ちたニュースをもたらしてくれました。プロゴルファーの松山英樹と水泳女子の池江璃花子の活躍です。
 松山英樹がアメリカからもたらしたニュースは、日本のゴルフ界を歓喜の渦に巻き込みました。マスターズ・トーナメント優勝です。日本ゴルフ界の悲願達成です。ゴルフ関係者は狂喜乱舞したことでしょう。
 マスターズはメジャーと呼ばれる4大大会(マスターズ以外には、全米プロ、全米オープン、全英オープン)の一つですが、日本のゴルファーが初めてメジャーに挑戦したのは、宮本留吉が全英オープンに参加した1932年のことだそうです。結果は予選落ち。メジャーでの初の予選突破は3年後、1935年中村兼吉が全米オープンで成し遂げました。二人とも日本のゴルフ界の黎明期の人物なので、私は全く知りません。私が知っているゴルファーで言えば、青木功が1980年全米オープンで2位、中嶋常幸が1988年全米プロで3位、丸山茂樹が2002年全英オープンで5位になっています。初出場から89年、間違いなくゴルフ界の偉業です。
 ゴルフは数百メートル先にある直径108ミリの小さな穴に、直径およそ42ミリの小さなボールを、何打で入れるかを争うスポーツです。私はゴルフをやったことがないので、あくまで想像ですが、1打目2打目は、ホールに近づけるために、遠くに飛ばすことが目的なので、あまり緊張しないかもしれません。しかしグリーンにのってからの1打は、ホールに入れるための1打になるので、緊張の度合いがかなり上がると思います。残った距離にもよりますが、打つコースはこれでよいのか、打ち出す力はどれぐらいか、いろいろの事が頭の中をグルグル駆け巡ります。クラブを握り手は冷や汗でびしょり、心臓は口から出るほど高鳴るかもしれません。緊張の極致です。
 そんな時に自分を支えてくれるのは、これまでの練習です。何百回、何千回と打ち込んだトレーニングだけです。松山英樹は自分の努力を信じて4日間戦い抜き、偉業を達成しました。
 もう一人のアスリート池江璃花子の泳ぎには、日本中が涙したと思います。日本選手権女子100メートルバタフライ決勝。50メートルのターンを終えしばらくすると、先頭争いの中から、白いキャップがほんの少しだけ前にでました。池江璃花子です。「頑張れ。負けるな。あと少し。」とテレビの画面に向かって応援している自分がいました。そして頭一つ抜いて1位優勝。池江選手の喜ぶ姿に、目頭が熱くなった人は、私だけではないはずです。
 2019年2月。大会に出れば必ず優勝という絶頂期に、彼女は白血病に罹ってしまいました。絶望のどん底です。東京オリンピックでの活躍が期待されていたので、どれだけ本人は悔しかったことか、想像にたえません。
 闘病生活のはじまりです。抗がん剤の副作用で髪は抜け、嘔吐を繰り返し、10キロ以上も体重が落ちたそうです。しかし2014年のパリ五輪出場を心の支えに、辛く苦しい治療に日々耐えました。そして約10ヵ月後、病魔との闘いを制し無事退院することができました。
 練習の再開です。最初はプールで歩くことから始めたそうです。水泳の第1人者が水中歩行です。状況に応じて、今やれることから手を抜かず始めました。1歩1歩地道に進んでいきます。なかなか出来る事ではありません。本人もインタビューで涙ながらに答えていました。「すごくつらくてしんどくても、努力は必ず報われるんだなと思った。」

第7段 中学の学習内容が難しくなります

-学習指導要領改定-

ある春の教育相談会

母 親:おはようございます。今日はよろしくお願いします。

塾 長:おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。

母 親:この春から中学の勉強が難しくなると聞いたんですが。

塾 長:新しい学習指導要領のことですね。難しくなると思いますよ。

母 親:どう難しくなるのですか?

塾 長:そうですね。答えのない問題に答えを出す、という感じですかね。

母 親:?

塾 長:すみません。たとえが悪かったですね。そうですね。これまでの学校教育は、決まった答えをどう出すかの学習指導でした。しかし現実社会では、その人の立場、生活環境、個人の性格などによって、問題に直面した時に出す答えは、いろいろですよね。正解も不正解もたくさんあります。複数の答えを出せる人間を育成しようということです。
さて、いろいろな事を考えるには何が必要でしょうか?

母 親:・・・たくさんの知識。

塾 長:そうですよね。私たちは知っている事柄を、いろいろ組み合わせて物事を考えるわけです。いろいろな事を深く考えようとすれば、それなりにたくさんの知識が必要になりますよね。教科書の分量も増えてきます。
英語を例にとれば、中学で覚える英単語は1600語~1800語に増加するそうです。小学校ですでに700語ほど学習しているので、あわせて約2500語になります。この語数は、現在の学習語数のおよそ2倍になります。英語学習の時間なので、英語で物事を考えたほうが良いに決まっていますが、生徒に与える負担は大きいですよね。英語の授業についていけず、英語嫌いの生徒がたくさん出てくる心配があります。

母 親:うちの子ども大丈夫かしら?

塾 長:英語学習が初めての子供さんなら、今のうちにアルファベットとローマ字の習得をおすすめします。母と子音の組み合わせで発音する、よい練習になると思いますよ。英語学習が進んでいるお子さんには、今のうちに文字を書く習慣をつけることをおすすめします。中学では英語のテストがあるので、書かなければ点数が取れません。好きだった英語が嫌いになってしまうかもしれません。シューレでは、3月22日~4月9日まで春期講習を行います。是非ご参加下さい。

母 親:はい、是非参加させます。今日はありがとうございました。

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