第13段 東京パラリンピック

東京パラリンピック

コロナ禍の中、パラリンピックも何とか無事に終わりました。緊急事態宣言下の東京に、161にも及ぶ参加国・地域から、およそ4000人の人々が集まりました。爆発的な感染が心配されましたが、パラリンピックを直接原因とするクラスタ―の発生もなく無事に終わり、とりあえず良かったです。  身体障害者による一番大きな国際競技会。義足をつけて走ったり、車椅子でボールを打ち合う。パラリンピックに対する私の認識はその程度のものでした。しかし、今回テレビで幾つかの競技を見て、私の認識は間違っていました。ガーン!頭をハンマーで叩かれました。彼ら・彼女らは皆アスリートでした。健常者の競技者と何も変わらないアスリートでした。
 ボッチャ。数メートル離れたジャックと呼ばれる白い球に、自分のボールをどれだけ近づけるかを争う競技です。投げるだけだから、簡単かと思うのですが、それがいやいや。息詰まる神経戦です。
 ジャックとの距離はコンパスのような用具で測るので、ミリメートル単位の勝負です。相手より近く投げるには、どこに落とすか。相手のボールをどう邪魔するか。一球一球考えに考え、不自由な体を制御しながらボールを投げます。ボールが落ちるまでの時間は短いですが、見ている方は息を殺して見ています。ゲームが終わると、ホッとため息がこぼれてしまいます。刀をボールに変えた真剣勝負です。
 水泳。手足が不自由だったり、なかったりするのに、どうやったらあんなに速く上手に泳げるんだろう。想像を絶する努力が、その裏にはあるはずです。
 陸上。車椅子で走る姿は、スポーツカーのレースです。素晴らしい記録が出たときの、義足をつけて走ったり飛んだりした姿には、美しさが現れていました。
 車椅子バスケにラグビー。球技に名を借りた格闘技です。特に車椅子ラグビー。筋力が弱くてボールコントロールが出来ない選手は、相手選手の邪魔をするために、車椅子ごとぶつかっていきます。その時の衝撃音には凄いものがあります。完全に格闘技です。
 車椅子テニス。足の長いボールを打ち合うだけだと思っていたら、全く間違っていました。ボレーにスマッシュ。その度ごとに、コートを前後左右に車椅子で走り回ります。ボールを背に落下点まで走り、振り向きざまにボールを打ち返すプレーは、素晴らしすぎて言葉がありません。文句なく超一流のアスリートです。
 障碍者のスポーツ競技は、1948年(昭和23年)にルードウィッヒ・グッドマン博士が、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院内で行ったのが、最初と言われています。第2次世界大戦で脊髄を損傷した兵士の、リハビリのために実施されました。競技はアーチェリー。参加人数は、車椅子使用の入院患者16人だけだったそうです。
 当初は病院内だけの競技大会だったのが、会を重ねる内に参加者が増え、1952年(昭和27年)には、ついに国際大会にまで大きくなりました。当時はまだパラリンピックという呼称は使われず、国際ストーク・マンデビル競技大会と呼ばれていました。
 では、パラリンピックという名称は何時から?それは何と1964年(昭和39年)開催の東京からでした。東京オリンピックと同時に開催された、第13回ストーク・マンデビル競技大会を、パラリンピックと呼んで競技会を実施しました。当時の参加国・地域は22.参加人数は400人弱でした。半世紀かかってパラリンピックが東京に帰って来ました。おかえり。  選手たちは、次のような事をよく口にしていた気がします。「失ったものをあれこれ考え悩むより、今あるもの、残された機能を有効に使おう」。凄く前向きな、胸に響く言葉です。

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